鈴木伸治・御言葉に向かう(2)

神様の御心を求める歩みをしています。

説教「生きておられる方」

2019年4月21日、六浦谷間の集会 
「復活節第1主日イースター

説教・「生きておられる方」、鈴木伸治牧師
聖書・ 創世記9章8-13節、ローマの信徒への手紙6章3-11節
   ルカによる福音書24章1-12節
賛美・(説教前)讃美歌21・327「すべての民よ、よろこべ」
   (説教後)讃美歌21・493「いつくしみ深い」


 本日はイースター、主イエス・キリストの復活祭であります。昨日まで、3月6日から40日間は受難節として歩んでまいりました。40日の中の日曜日は数えられていませんが、イエス様の受難の道、十字架への道を示されながら歩んでまいりました。そのイエス様のご受難の道は十字架に至ることでありますが、その十字架は私達を救いへと導かれることでした。ですからイエス様の受難は悲しいことですが、私達を救いへと導くことでありますから、むしろ喜びであることも示されています。前週の日曜日は棕櫚の主日であり、受難週の始まりです。この受難週の過ごし方をスペインのカトリック教会で示され、お話ししました。すなわち棕櫚の主日はイエス様が十字架による救いへと歩んで行くことなので、喜びでもあるのです。カトリック教会では子供たちも聖壇に上がり、持っている棕櫚の枝を床に打ち付けて喜びを現し、救いのイエス様を迎えるのでした。だから、日本のように受難週は忍耐をいただいて歩むというより、救いの喜びを現しながら歩むということを示されたのであります。主イエス・キリストは人間をお救いになるために、ひたすら十字架を目指して歩んだのでありました。
 4月となり、新しい歩みが始まりました。入園式、入学式、入社式等が紹介されていますが、私達も新たなる思いで歩みだしたいのであります。信じる道を踏みしめて行くこと、必ず祝福があるのです。その信じるということは、イエス様が現実の私達と共におられて導いてくださっているということであります。3月17日には宮城県の陸前古川教会の礼拝において講壇に立たせていただきました。実に40年ぶりになります。神学校を卒業して、最初は東京の青山教会に赴任し、伝道師、副牧師として過ごしましたが、4年後には陸前古川教会の主任牧師として赴任しました。初めて牧師として歩み始めた教会でもあります。6年半の牧会でしたが、いろいろな経験を重ねながらも、牧師としての歩みが導かれたのであります。その頃、お交わりのあった皆さんは、今は天の国に召されておられる方もおられますが、しかし、今でもお元気に過されておられる皆さんとの再会でした。そしてまた、その頃、小学生、中学生、高校生の皆さんが、今は家庭を持たれ、社会的にも活躍されている皆さんなのでした。本当に懐かしい再会でしたが、皆さんとお会いして、イエス様が共におられて導いてくださっている現実を示されたのでした。イエス様は生きておられるのです。生きているイエス様が、皆さんと共に歩んでおられることを示されました。
 当日は午前中の礼拝は私が説教をさせていただきましたが、午後からは娘の羊子のピアノリサイタルが開かれました。羊子は小学校4年生まで古川で成長したのですが、その頃をご存じの皆さんが、今の羊子の活躍ぶりを驚き、喜んでお迎えくださったのでした。40年前の皆さんとの再会を通して、生きておられるイエス様のお導きを示されたのです。

 旧約聖書はノアの洪水の物語です。神様の救済の示しであります。今朝の聖書は創世記9章ですが、洪水物語は6章から始まっているのです。地上には人が増え、増えた人々は次第に悪に染まり、常に悪いことばかりを心に思い計るようになってしまいました。そこで神様は、「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけではなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する」と言われました。これは神話の世界ですから、神様のお心を人間的にあらわしているのです。神様はノアとその家族を顧みました。ノアとその家族は残し、後は滅ぼすことになったのであります。そのため、神様はノアに大きな箱舟を造ることをお命じになりました。箱舟の長さ300アンマ、幅50アンマ、高さ30アンマの箱舟といいます。1アンマは約45㎝です。従って、長さ135m、幅22m、高さ13mと言うことになります。やはりかなり大きな船になります。箱舟ができあがりますと、すべての動物を一つがいずつ箱舟に入れ、そしてノアの家族が箱舟に入ります。ノアの家族はノアの妻と三人の息子たちでした。彼らが箱舟に入ると雨が降り出します。そして、水かさが増え、ついに箱舟が浮かびました。洪水となり、すべての生き物は死に絶えたのでした。水は150日の間、地上にあふれていました。しかし、次第に水が引きはじめ、乾いた地になりましので、ノアとその家族、動物たちは大地に降り立ったのであります。ノアは、まず神様に礼拝するために祭壇を築きました。そして家族と共に礼拝をささげたのであります。そこで神様から祝福の約束が与えられましたが、今朝の聖書になります。
 神様はノアと彼の息子たちに言いました。「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。あなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない」と言われるのであります。そして神様がノアに交わした契約は、「わたしは雲の中にわたしの虹を置く」と言うことでした。つまり、虹が出ることは、神様が契約をお示しになっているということなのです。虹は恵みの雨の晴れ間にできる現象です。まさに神様のお恵みのしるしでもあります。お伽話のようですが、真理が示されているのです。
 こうして神様はノアを通して新しい人間を導きました。しかし、人間は相変わらず、思うことは悪い計りごとでありました。再び神様の審判があるとは新約聖書の時代になって示されて来るのです。すなわち終末信仰というものです。イエス様ご自身も終末の示しを与えておられるのです。「その日、その時は分からない。いつ終末を迎えても、神様の祝福をいただく歩みをしなさい」との示しをイエス様がくださっているのです。
 神様はノアを通して新しい人間を導いておられるのです。それは、今日においても新しい人間へと導いておられるのです。新しい人間は神様の御心を示されて生きるのです。時には現れる虹を見ては神様の御心を示されるのです。新しい人間は他者を受け止めて生きます。共に生きることが神様の御心なのです。互いにその存在を受け止めながら生きるということです。ノアの洪水、バベルの塔、ソドムの滅亡等、悪をお嫌いなさる神様の審判を聖書は証ししているのです。神様の御心をいただいて、「全身が輝いて」歩みたいのです。ノアに与えられた虹の約束は、十字架へと導かれることです。今日、私たちは十字架を仰ぎ見ては神様の救いを示されているのです。

ルカによる福音書は、24章でイエス様のご復活を記しています。週の初めの日、婦人たちはイエス様が埋葬されているお墓に行きます。十字架に架けられ、死んで葬られているイエス様なのです。ですからさっそくお墓参りに行くのでした。お墓の入口には大きな石でふさがれているはずです。聖書の時代のお墓ですが、横穴に埋葬します。そのままですと動物にあらされるので、大きな石でふさいでいたのです。しかし、別の言い方があります。イエス様はかねてより、十字架に架けられ、死んで葬られますが、三日目によみがえることをお話しされていました。それを聞いている時の社会の指導者たちは、弟子たちがイエス様の死体を盗んでどこかに隠し、イエス様が復活されたと言いふらすに違いない、ということで大きな石でふさいでいたということです。これはマタイによる福音書の報告です。しかし、ルカによる福音書はその様なことは記していません。
 婦人たちがお墓に行くと、大きな石が転がしてあり、お墓の中にはイエス様のご遺体がないのです。そのため婦人たちは途方にくれているのですが、そこへ天使が現れます。そして天使が言われたことは、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活されたのだ。ガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活されることになっている、と言われたではないか」との言葉で、婦人たちはイエス様の言葉を思い出すのでした。そこで、お弟子さんたちに知らせるのですが、お弟子さんたちは婦人たちの報告を「たわ言」のようだとしたのでした。しかし、ここではっきりとイエス様のご復活が知らされているのです。知らされても信じないお弟子さんたちでした。それでもペトロは墓に向かって走っていったのです。たわ言と思いながらも、イエス様と共にいたとき、イエス様の予告的な言葉も示されていたのであります。だから、半信半疑と言いましょうか、イエス様のお墓に走って行ったのです。墓の中をのぞくと、イエス様のご遺体は亜麻布にくるまれて埋葬されていたのですが、お墓の中にはその亜麻布しかなく、イエス様のご遺体はありませんでした。そこで、ペトロはイエス様のご復活を信じなければなりませんでした。しかし、ご遺体がないということで、ただ驚くばかりであったのです。そして、驚きながら家に帰ったと報告されています。イエス様は、ご復活するとお弟子さん達にも示されていたのですが、現実に驚くばかりで、その現実の意味を理解できないのであります。
 この現実には神様のお導きがあるのです。今、起きていることは、辛いこともあるでしょう。あるいは喜びであることもあるでしょう。しかし、この現実を驚くのではなく、この現実の意味を示されなければならないのです。先ほども古川のお話をしましたが、青山教会に在任している頃、陸前古川教会赴任のお話がありました。喜んでそのお話を受けとめました。今までの牧師は40年間も教会の牧師、幼稚園の園長を担いつつ歩まれてきたのです。ですから、当然、私も牧師と共に幼稚園の園長を担うと思っていたのです。そうしましたら、直前になって、幼稚園の園長は教会員が担うので、牧師の務めをしてもらいたいということでした。なんとなく、話が違うと思うようになり、しばらく赴任することは保留にしていたのです。しかし、折角お招きくださったのであるから、お招きを受け入れたのであります。「鈴木牧師には教会の牧会に専念してもらいたい」ということでした。そういうことで就任しましたので、教会の務めを担いつつ過ごしましたが、しかし、宗教法人の幼稚園ですから、教会が設置者であり、教会の代表役員でもありますから、幼稚園に関わりつつ過ごすことになるのです。それでも幼稚園の管理運営的なことは役員会が担っていますので、本当に教会の務めを楽しみつつ果たすことができたのでした。その頃の小学生、中学生、高校生の皆さんと、夏期学校やいろいろな交わりの集いを開きつつ歩みましたので、皆さんは覚えてくださっていたのです。
 今の現実は話が違うと思っていたことが、その現実において大きな働きへと導いてくださったのでした。40年ぶりに皆さんとお会いした時、まさに、生きておられるイエス様を示されたのであります。40年間、皆さんはどのように歩まれたかは存じ上げませんが、皆さんはイエス様を示されて成長したのでした。その後、教会とは関わらなかったとしても、生きておられるイエス様のお導きがあったと示されています。

 「いつくしみ深き、友なるイエスは」という讃美歌があります。讃美歌の54年版に慣れていますので、讃美歌21になっても今までの歌詞で歌ってしまうことがあります。54年版は312番になります。この「いつくしみ深き」の讃美歌を私の母はとても大好きで、いつも口ずさんでいました。母はキリスト教信者ではありません。むしろ浄土真宗の信仰を持って生きた人でした。私は5人兄弟の末っ子ですが、長姉と次姉は清水ヶ丘教会員で、私を含めて3人の子供たちがクリスチャンでした。両親は自分達が浄土真宗でありますが、子供たちが教会に出席するのを見守っていたのです。長姉は日曜日に教会から帰ると、牧師の話し、説教を報告していました。そして長姉と共に讃美歌312番を歌っていたのです。その母は1989年5月29日、91歳で亡くなりました。病院にいる母のベッドの横で、長姉がいつも讃美歌312番を歌って聞かせていたことが思い出されます。葬儀は自宅で行いました。母の信仰を尊重して浄土真宗で行いました。葬儀には友人の牧師7、8人が来てくれました。通夜の葬儀が終わって、いわゆるお清めの時、牧師たちに母の愛唱讃美歌であった312番を歌ってもらったのです。和尚さんもそこにいましたが、鈴木家の子供たちがキリスト教であることを知っていましたので、讃美歌を歌うのを笑顔で見守っていました。「いつくしみ深き友なるイエスは、罪とが憂いをとり去りたもう。心の嘆きを包まず述べて、などかは下ろさぬ終える重荷を」と歌いますが、母は生前、この讃美歌を口ずさみながら、神様の慈しみを深く受け止めていたと思います。
 余談でありますが、通夜が終わり、讃美歌が歌われた後、お清めには和尚さんと共に牧師たちが加わり、いろいろと懇談したことが思い出されます。仏教のお坊さんとキリスト教の牧師たちが、葬儀ということで共に語らう、母の引き合わせであると思いました。浄土真宗の信仰に生きながら、子供たちのキリスト教を受け止めていた母です。神様の慈しみを示したと思っているのです。神様の慈しみが私達に与えられているのです。
生きておられるイエス様は、私達に驚くべき現実を与えられますが、その現実こそイエス様のお導きであります。苦しい時、悲しい時等がありますが、その現実を悲しみつつも、この現実にこそ生きておられるイエス様が導いておられることを示されたいのです。ペトロは現実を驚くばかりで、この現実には大きな神様のお導きがあることには気がつきませんでした。この現実を驚きながらも、その現実を生きておられるイエス様がお導きくださっていることを示されたのであります。
<祈祷>
聖なる御神様。イエス様の十字架を仰ぎ見つつ歩むことができ感謝いたします。復活の主に導かれつつ歩ませてください。主キリストのみ名によりおささげたします。アーメン

 

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