鈴木伸治・御言葉に向かう(2)

神様の御心を求める歩みをしています。

説教「救いの源」

2019年4月7日、六浦谷間の集会 
「受難節5主日

説教・「救いの源」、鈴木伸治牧師
聖書・ 哀歌1章1-6節、ヘブライ人への手紙5章1-10節
   ルカによる福音書20章9-19節
賛美・(説教前)讃美歌21・302「暗いゲッセマネ
   (説教後)讃美歌21・481「救いの主イエスの」


 今朝は4月の第一日曜日であり、2019年度の始めの礼拝です。この年度も礼拝に向かう歩みが導かれていることを感謝したいと思います。先日の3月21日は私達夫婦の金婚式でした。50年間、共に歩んでまいりましたが、連れ合いには50年間、私の説教を聞きつつ歩んでくれたことを感謝しています。2010年3月末、30年間務めた大塚平安教会を退任しましたが、4月から9月までの半年間は横浜本牧教会の代務者を担いました。10月から、どこの教会にも所属しない無任所教師になり、どこかの教会に出席することでした。10月、11月は今まで関係した教会に挨拶を含めて出席していましたが、その年の2010年11月28日に六浦谷間の集会として、自宅にて夫婦二人で礼拝をささげたのです。いろいろな教会を示され、どの教会に出席するかと夫婦で話し合っていたのですが、どこかの教会に出席するようになれば、鈴木牧師の説教はなくなるのです。長年、鈴木牧師の説教を聞き続けて来た連れ合いは、ここで終わるのではなく、続けてもらいたいとの意向でした。むしろ今までは鈴木牧師の説教を聞き続けていのだから、これからは他の牧師の説教を聞くことができるのではないかと言いました。結局、牧師と信徒がいるのですから、二人で礼拝をささげることにしたのです。六浦谷間の集会と称する集会です。第一回は夫婦で礼拝をささげましたが、二回目には近くの追浜にお住いの大塚平安教会の教会員、小澤八重子さんが出席されたのです。大塚平安教会在任中は小澤さんもお元気で教会の礼拝に出席されていました。私たちが大塚平安教会を退任する2、3年前頃から、追浜におられる娘さん家族と共に生活されるようになったのです。追浜は横須賀市になりますが、私共の家から比較的近くなのです。娘さんに車で送り迎えされながら、それからも時々でありますが出席されるようになったのです。六浦谷間の集会には時には我が家の子供たちも出席し、また時には知人の皆さんも出席されるようになりました。それが今でも続いており、次週にも知人の皆さんが出席されることになっているのです。
 六浦谷の集会の報告をしているのではなく、50年間、私の説教を聞き続けてくれている連れ合いの証しとしてお話をしているのです。大塚平安教会当時、連れ合いは礼拝には最前列に座っていました。他の教会の牧師のお連れ合いは、礼拝中は一番後ろの席に座るか、何かと目配りをしているようです。しかし、連れ合いのスミさんは、一人の信徒として、御言葉に向く姿勢を持っていました。それが今の証しでもあるのです。金婚式を迎えたとき、スミさんの説教への姿勢を示され、感謝をしたのでした。私たちの生きる原点、「救いの源」は主イエス・キリストの十字架の贖いなのです。さらに示されるために、礼拝をささげ、御言葉に耳を傾けることなのです。礼拝をささげる人生は「救いの源」を示されながらの歩みとなるのです。

 本日の旧約聖書は哀歌であります。以前はエレミヤ哀歌と称されていましたが、預言者エレミヤが書いたものではありません。聖書の人々がバビロンに滅ぼされ、多くの人々がバビロンの空の下で、苦しみつつ生きるようになった時代です。故郷の都エルサレムはバビロンによって破壊され、荒廃したままであります。そのような状況を悲しみつつ歌っているのが哀歌であります。標題のように悲しみの歌であります。本来、聖書の原題は「エーカー」というものです。エーカーは「どうしてなのか」、「なぜなのか」ということです。嘆きの言葉がエーカーであるのです。嘆きの言葉がそのまま聖書の題になっているということです。まさに哀歌に記されていることは嘆きの言葉でした。
 「なにゆえ、独りで座っているのか。人に溢れていたこの都が」と嘆いています。都エルサレムは荒廃したままになっています。そもそも聖書の国、ユダがバビロンに滅ぼされた原因は何であったか、ということです。聖書の人々は神様に選ばれた民として、神様の御心によって生きることでありました。それが周辺の国々、大国の狭間にあって、指導者達は人間の力に頼ろうとしたのであります。アッシリア、エジプト、バビロンの力関係を計りにかけながら生き延びる道を求めていました。そういう中で預言者達、中でもエレミヤは真の神様の御心に立ち帰るよう教えました。人間の力ではなく、神様の御心に立ち帰るよう求めたのであります。今はバビロンが脅威であり、他の国に助けを求めて交戦するのではなく、バビロンに降伏しなさいと示しました。指導者達はエジプトの力を求めていたのであります。エレミヤの説得は無視され、結局ユダの国はバビロンに滅ぼされることになったのであります。そのことを示しているのが1章5節であります。「シオンの背きは甚だしかった。主は懲らしめようと、敵がはびこることを許し、苦しめる者らを頭とされた。彼女の子らはとりことなり、苦しめる者らの前を、引かれて行った」と事実を示しているのであります。
 この悲しみの現実を直視しなさいと哀歌は示しているのです。このようになったのは何のためかということです。エレミヤがあれほど「主の御心に立ち帰れ」、シューブという言葉ですが、繰り返しシューブと叫びました。帰らなかった人々です。「なにゆえ」と嘆くのは、エーカーと悲しみの声を上げるのは、立ち帰らなかったことなのです。だから、この現実を直視しなさい。「エルサレムは心に留める。貧しく放浪の旅に出た日を、いにしえから彼女のものであった宝物のすべてを。苦しめる者らの手に落ちた彼女の民を助ける者はない。絶えゆくさまを見て、彼らは笑っている」と嘆きの言葉が示されています。この現実、嘆きの現実の意味を問いなさいと示しているのであります。この現実は、あなたがたが神様の御心から離れてしまったからであると示しています。この悲しみの現実は、人々が神様の御心を忘れてしまったからであると示しているのであります。
 あなたは神様の御心で満たされているか。心を清くして、そこに土台を据えているか、これが聖書が繰り返し求めていることなのです。自分の中から悪霊を追い出しても、土台を据えないので、すぐに悪霊が帰ってきますよ、と聖書は示しているのです。マタイによる福音書は、もっとわかりやすく示しています。「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである」と示しています。そして、「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった」(マタイによる福音書7章24-27節)と示しています。土台の上に立つことを示しているのです。

 神様の御心から離れてしまう人間の生き方は、自己中心であり、他者排除であります。人間は本来神様の御心をいただいて生きるとき、平和な人間の社会に導かれるのであります。そのことは創世記2章で記される人間創造で示されています。神様は天地を造られた時、最後に人間を創造されました。神様は土で人の形を造りました。しかし、まだ人間ではありません。神様は土で造った人の形の鼻に命の息を吹き入れたのであります。すると人間は生きた者となったと示しているのであります。これは、もちろん神話的な書き方ですが、深い真理を示しているのであります。つまり、人間は神様の息をいただいて生きるということであります。「息」という言葉は「ルアッハ」であります。ルアッハには、「生きる、霊、風」とも訳される言葉であります。
 エゼキエル書37章に「枯れた骨の復活」について示されています。エゼキエルは幻の内に平原に導かれます。そこには枯れた骨が一面に散らばっています。触ればくずれてしまうほどの枯れた骨です。神様はこの骨に向かって預言せよと言われるのです。言われたように預言すると、骨と骨があいつらなり、骨の上に筋と肉が生じ、皮膚でふさがれるのであります。すると、神様の霊が風のように吹きまくるのであります。すなわち、ルアッハが吹きまくったのであります。すると、人々は生き返り、自分の足で立ったのであります。ルアッハの力、導きであります。このことは使徒言行録に示される聖霊降臨も同じであります。イエス様が十字架につけられ、復活されましたが、お弟子さんたちは現実にイエス様がおられないので、力を無くして過ごしていたのです。その弟子達の上に風のようなものが吹きまくった時、意気消沈していた弟子達が立ちあがったのであります。ルアッハをいただいたからであります。ルアッハは神様の御心なのです。神様の御心なくして、人間は真の生きた存在ではないのです。哀歌はルアッハが無くなった現実でした。
 新約聖書におきまして、主イエス・キリストもルアッハを放棄している人々を示しているのであります。ルカによる福音書20章9節以下でイエス様はたとえをもって現実をお示しになっておられます。「ぶどう園と農夫」のたとえであります。このたとえを示される時、旧約聖書イザヤ書5章を合わせて示されるのです。イザヤ書は「ぶどう畑の歌」としています。神様がぶどう畑に良いぶどう植えました。よく耕し、石を取り除き、良いぶどうができるようにしたのです。ところが収穫は「すっぱいぶどう」でした。これはなぜかと問うているのです。せっかく手をかけ、面倒を見たのに、結果がこのようになるとは、神様の導きを拒否したからなのです。そのイザヤ書の示しと同じように、ルカによる福音書も、神様の導きを拒否する人々を示しているのであります。「ある人がぶどう園作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た」という設定であります。ぶどう園の主人は収穫の時期になったので、収穫の利益を得るために僕を送ります。しかし、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで返したのであります。主人は、さらに他の僕を送りますが、同様に袋だたきにして何も持たせないで追い返したというのであります。三人目の僕も送りますが、傷を負わされて放り出されたということです。主人は、今度は自分の息子を送ります。愛する息子なので、敬ってくれるだろうと思ったのです。しかし、農夫たちはその息子を殺してしまったというのです。
 このたとえ話は、先に送られた僕たちは旧約聖書に登場する預言者を示しているのです。神様は預言者を通して、神様の御心に生きるよう示しますが、人々は聞き入れませんでした。むしろ迫害された預言者たちでした。今、神様は御子を世に遣わし、神様の御心を示されたのであります。ところが、指導者達の妬みが高まって、ついに十字架によって殺されてしまうのです。これは後に起こるべきことを示しているのであります。人々はイエス様のお話を興味深く聞いていましたが、このお話は明らかに指導者達のことを言っていると悟るのでした。その時、イエス様は「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」と言われました。家を造るときは石で土台を固めますが、もう土台の石は必要ないということで、他の石は捨てます。しかし、家を建てるとき、守り本尊のように石を中心にするのです。捨てた石からそれを拾うということです。まさにイエス様が人々から捨てられますが、人々の中心になっていくことを示しているのであります。
 神様の御心から離れる現実は、破滅であることを示しています。実際、都エルサレムは紀元70年にローマによって滅ぼされるのであります。昔、預言者の言葉、神様の御心を無視した人々がバビロンに滅ぼされたように、今また、神様の御心に生きない人々のエーカーが訪れることを示しているのであります。

 こうして、ついに人々は神様の御心を拒否し、主イエス・キリストを十字架に付けて殺してしまうのであります。十字架は主イエス・キリストが、人間がどうすることもできない自己満足、他者排除を滅ぼすことでありました。神様の命の息を与えられて生きるのが本来の人間なのです。しかし、神様の息ではなく人間の息を持って生きようとするのが人間の姿でありました。預言者を送り、神様の命の息を示すのでありますが、受け止めませんでした。そして、ついに神様の御子イエス様をも無視し、殺してしまうのであります。十字架は時の指導者達による妬みの結果であります。しかし、神様は、この十字架を救いの原点となさいました。十字架によりイエス様の血が流され、死ぬのは私の罪、自己満足と他者排除を滅ぼされたと信じることなのです。
3月17日は、以前牧会していた宮城県の陸前古川教会の講壇に立たせていただきました。6年半この教会に仕えさせていただきました。もう40年も昔になります。我が家の子ども達は幼稚園、小学生時代を過ごしたものですから、一度、古川を訪ねたいと話し合っていたのです。それが実現し、礼拝説教を担当させていただき、午後からは娘の羊子のピアノリサイタルを開かせていただきました。礼拝には懐かしい皆さんが大勢出席して下さいました。その礼拝では、「御心の礎を与えられつつ」と題して御心を取り次がせていただきました。特に強調したのは、「ここに教会がある」ということでした。私が在任した40年前の礼拝出席は20名前後でしたが、今もその数字は変わりません。いつも導かれて出席する皆さんがおられるのです。ここに教会があるということは、神様の御心をいただく礎があるということです。今朝の示しとしては「救いの源」がここにあるということです。40年前の皆さんは、年齢を重ねながらも、いつも「救いの源」を与えられながら歩んで来られました。その現実を示されたのであります。それと共に40年前にお交わりのあった皆さんが、今は天におられますが、「救いの源」をこの教会で与えられて歩まれたことも示されたのでした。神様の御心に向かう場所、そこには「救いの源」があるのです。
 <祈祷>
聖なる神様。イエス様の十字架のお導きを感謝致します。救いの源に導かれながら歩ませてください。主イエス・キリストの御名によりおささげします。アーメン