鈴木伸治・御言葉に向かう(2)

神様の御心を求める歩みをしています。

説教「十字架の導き」

2019年4月14日、六浦谷間の集会 
「受難節6主日」 棕櫚の主日

説教・「十字架の導き」、鈴木伸治牧師
聖書・ イザヤ書56章1-8節、ヘブライ人への手紙10章1-10節
ルカによる福音書23章32-49節
賛美・(説教前)讃美歌21・297「栄えの主イエスの」
(説教後)讃美歌21・311「血しおしたたる」


 本日は「棕櫚の主日」であります。イースターの一週間前の日曜日でありますが、この日に主イエス・キリストが都のエルサレムに入ったとき、人々は、それまでイエス様の奇跡の業、神様の嬉しい御心を示されていますので、この偉大な人が都に来られたということで大歓迎したのであります。新約聖書の四つの福音書はいずれもその模様を記しています。マタイによる福音書は、人々は自分の服を道に敷き、木の枝を切って迎えたと記します(21章1-11節)。マルコによる福音書は、人々は服を道に敷き、野原から葉の付いた枝を切ってきて道に敷いたと記します(11章1-11節)。ルカによる福音書は、イエス様が来られたということで、人々が神様を賛美したと記します(19章28-40節)。そして、ヨハネによる福音書は、人々がナツメヤシの枝をもって迎えたと記しています(12章12-19節)。昔の口語訳聖書のヨハネによる福音書が「しゅろの枝」と記しているのです。新共同訳聖書は「ナツメヤシの枝」になっています。従って、今でも「棕櫚の主日」と称しているのは、この口語訳聖書ヨハネによる福音書の「しゅろの枝」が基となっているようです。ナツメヤシは日本では見かけませんが、西インドやパレスチナが原産地とされています。ナツメヤシは果樹として食べられていますが、その樹は建築に用いられています。葉はござや籠が作られます。樹皮は縄に使われているということです。この様にすべてが用いられており、勝利のしるしとして、繁栄、優美の象徴となっているとのことです。そのためイエス様をお迎えするのに、ヨハネによる福音書は「しゅろの枝」を道に敷いたと記しているのです。イエス様が都エルサレムに入ったとき、どの福音書も人々が歓呼して迎えたということです。棕櫚の主日にはイエス様を喜んでお迎えする、私達も喜びたいと思います。日本のキリスト教は受難週に入るので、歓呼どころかイエス様のご受難を偲ぶということで、喜びをあらわさないようです。
 この年になって、受難節は喜びつつ歩むべきだと示されるようになっていますが、一つのきっかけはスペインにおける棕櫚の主日を経験してからです。スペイン・バルセロナには娘の羊子が滞在していますので、2011年4月から一ヶ月半、私達、連れ合いと娘の星子と共に滞在しています。4月から出かけましたので、丁度、受難週、イースターを経験しました。娘の羊子はカトリック教会のミサに出席し、奏楽奉仕をしています。実は娘の羊子はバルセロナに渡り、ピアノの研鑽を行い、そして演奏活動をする中でも、近くにプロテスタントの教会が無いのでカトリック教会に出席しました。そしてその教会の神父さんに、プロテスタントであるが、聖餐式を受けられるか聞いたのです。そしたらプロテスタントではだめであると断られたのです。それで、別のカトリック教会に出席し、聖餐式を尋ねました。そしたら、その教会の神父さんは、プロテスタントカトリックもイエス様への信仰は同じですと言われ、一緒に聖餐式に臨んでくださいと言われたのです。それからはその教会に出席するようになり、そしてミサの奏楽をするようになったのです。
 バルセロナ滞在中に、私達もこのカトリック教会に出席しました。そして棕櫚の主日の経験をさせていただきました。その棕櫚の主日前の週に、サグラダ・ファミリアの前の通りに露天商が多く出て、受難週の棕櫚の枝を売っているのです。受難週に関するものばかりではなく、いろいろな楽しいお菓子や玩具も売っているのです。そのような露天商が沢山並んでいるのでお祭り騒ぎの様でした。そして棕櫚の主日の日、教会に行きますと、子供たちが棕櫚の枝をもって教会に集まってきているのです。20人くらいいたと思います。まず、教会の外の庭に教会の皆さんが集まります。そこで神父さんが棕櫚の主日の儀式をして、そして皆で教会の中に入っていくのです。子供たちは神父さんと一緒に聖壇に上がります。ミサが進むうちにも、子供たちは棕櫚の枝を床に打ち付けて、賑やかにイエス様をお迎えするのでした。このような棕櫚の主日を経験して、お祭り騒ぎのような棕櫚の主日のミサでしたが、これからイエス様がご受難の道を歩むのですが、それは私達を救うためであり、まさに喜びであるのです。その意味でも棕櫚の主日は喜びつつミサをささげているのです。日本では受難節、受難週は質素な、克己の生活をするという昔ながらの信仰が根底にありますが、もっと喜びつつ迎えなければならないのです。今朝示されますように、十字架はイエス様のご受難でありますが、そのご受難が私たちの救いでありますから、喜びつつイエス様の十字架のお導きをいただきたいのであります。

 本日の旧約聖書イザヤ書56章です。聖書の人々は当時の強国バビロンに滅ぼされ、多くの人々がバビロンに連れて行かれたのです。しかし、そのバビロンが衰退し、ようやく解放されたのでした。約50年間の捕われから解放された人々への励ましと導きの言葉が記されているのです。捕われから解放されたものの、人々の苦しい状況は続いています。困難に生きる人々へ、神様の御心を示しているのが本日のイザヤ書であります。「主はこう言われる。正義を守り、恵みの業を行え。わたしの救いが実現し、わたしの恵みの業が現れるのは間近い」と示しています。旧約聖書の根底にあるのは、神様が人々に与えた十戒でした。第1戒から第4戒までは神様を信じることであり、第5戒から第10戒までは人間関係の戒めです。イエス様はこの十戒を、「あなたがたは神様を愛し、隣人を愛しなさい」とまとめています。まさに十戒は神様を愛し、人間を愛して生きることが、人々の生きる道なのです。だからこの56章2節には、「いかに幸いなことか、このように行う人、それを固く守る人の子は。安息日を守り、それを汚すことのない人。悪事に手をつけないように自戒する人は」と示しています。「このように行う人」とは「神様を愛し、人々を愛して生きる」人なのです。そして「安息日を守る」ことが重要なことなのです。安息日を守る戒めは第4戒であります。「安息日を守ってこれを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」と戒められているのです。これは旧約聖書に記される天地創造が基となります。神様は日曜日から創造の業を始め、金曜日に終わるのです。そして、土曜日を安息日としているのです。神様が休んだから、人間も休むというのではなく、この安息日に神様の創造の業を深く受け止めることなのです。それは神様の創造により、今、恵みによって生かされていることを感謝するということなのです。一つ一つ神様の恵みと祝福が満ちていることを示されるならば、十戒を正しく生きるということになるのであります。
 イザヤはこのように神様の恵みを示されていることを示し、人々が神様の「祈りの家」に集められることを示しているのです。6節に、「主のもとに集まってきた異邦人が、主に仕え、主の名を愛し、その僕となり、安息日を守り、それを汚すことなく、わたしの契約を固く守るなら、わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き、わたしの祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す」と示しています。つまり、十戒を基本として生きる者は、どのような人々も神様の「祈りの家」に導かれると示しているのです。「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」とも示しています。「祈る」ということは神様の御心を示されることであり、祈りが導かれているならば、そこは「祈りの家」であるのです。
私達にとって祈りが導かれるのは、イエス様の十字架です。イエス様が十字架にお架りになり、私たちの根源的な罪をお救いくださったのです。十字架を仰ぎ見ることが私達を祝福の人生へと導かれることなのです。イエス様は日々、十字架のお導きを与えてくださっているのです。旧約聖書は神様にお祈りするならば、人間の基本的生き方、十戒を基にした人生が導かれることを示しているのです。イエス様は繰り返し「神様を愛し、人々を愛しなさい」と教えておられるのです。すなわち、十戒を基として導いておられるのです。

 今朝の新約聖書ルカによる福音書は、主イエス・キリストが捕えられ、十字架への道を歩み始めることが記されています。そのイエス様が十字架への道を歩み始めるにあたり、「祈りの家」に導かれているのです。イエス様はエルサレムの東側にあるオリーブ山にはいつも行かれており、そこでお祈りをささげ、寝泊まりしていたことも示されます。十字架を前にしたときにも、この「祈りの家」に導かれたのです。お弟子さんたちも一緒であったと言われます。いつもの場所に来ると、イエス様はお弟子さんたちに「誘惑に陥らないように祈りなさい」と諭し、イエス様はそこから少し離れたところでお祈りしたのでした。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」とお祈りしたのでした。「杯」としていますが、受けなければならない十字架のことです。イエス様はクリスマスにお生まれになりました。神の子としてお生まれになったと示されますが、人間としてお生まれになっているのです。ですから、人間として洗礼を受け、人間として人々の苦しみを受け止めていたのです。人間であれば、苦しいことは避けて通りたいのです。その気持ちを率直に申しています。「この杯をわたしから取りのけください」と祈りましたが、すぐその後で、「しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください」とお祈りしています。ご自分の気持ちを述べながらも、全て神様に委ねておられるのです。聖書は補足的に「汗が血の滴るように地面に落ちた」と記していますが、全身でお祈りしていたことを示されるのであります。
 このようにお祈りして、イエス様がお弟子さんたちのところに戻ると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいたのです。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」と先ほども述べた言葉でお弟子さんたちを励ましています。他の福音書では、眠っているお弟子さんたちをイエス様がたしなめているようにも読めますが、ルカによる福音書は人間的弱さを憐れまれ、励ましているのです。「祈りなさい」とイエス様は導いておられるのです。お弟子さんたちもイエス様の十字架への道を示されています。悲しいことですが、この状況に与えられているのはお祈りであるということです。苦しいとき、悲しいとき、辛いとき、人間は自ずとお祈りが導かれますが、イエス様もこの状況だからこそお祈りをしなさいと導いておられるのです。この後、弟子の中でもユダが時の社会の指導者たちの差し向けた者たちを連れてくるのです。そしてイエス様は十字架への道を歩み始められたのでした。全て神様に委ねておられるのです。祈りつつこの状況にご自身を委ねられたのであります。もはやこの時点でイエス様の神様による救いが完成されたのです。
 主イエス・キリストは都エルサレムに入られ、人々に歓呼されて迎えられました。そして、すぐに神殿に行きました。神殿では捧げものを売る店が多く建ち並んでいます。人々が神殿にお参りに来る場合、捧げものを持ってこなければなりません。鳩をささげたり、お金をささげたりするわけですが、遠くから来る場合、鳩のような動物を持ってくるわけには行きません。そこで神殿では鳩を売る店があるのです。あるいは外国からやってくる場合、持っているお金は外国の貨幣です。ですから神殿の前には両替人がいるのです。そのような店は、ある意味では必要なのです。しかし、イエス様はそれらの商売をする人々を追い出したのでした。そして言われたことは、「わたしの家は、祈りの家でなければならない」ということでした。この言葉は、先ほどもイザヤ書を示されましたが、神様が人々を祈りの家に招いていることを示されました。まさに神殿は祈りの家でありました。本来の祈りの家に導いておられるのです。

 都エルサレムの人々がイエス様を歓呼して迎えたにも関わらず、一週間もしないうちにイエス様を「十字架につけよ」と、祝福から呪いに変わってしまったこと、人々にとって見世物が目的であったということです。奇跡や心を打つお話という関心が見られなくなったとき、呪いの道を選ぶことになるのです。ローマの皇帝は常に「パンとサーカス」を心がけていました。そうしないと人々の皇帝への忠誠を失うからです。「パン」は小麦粉です。これを人々に支給しては人々の希望となっていたのです。「サーカス」は見世物です。大きな競技場を造り、色々な競技をさせては人々を喜ばしていたのです。エルサレムの人々は歓呼してイエス様を迎えたものの、「サーカス」が見られなくなったので気持ちが変わって行ったのです。イエス様が示された「祈りの家」を忘れてしまったということです。それは神様の御心から離れてしまったということです。主イエス・キリストによって不思議なことだと目を見張るのではなく、そこに神様の御業があることを信じなければならなかったのです。イエス様の導く「祈りの家」に導かれるならば、神様の御心が示されるのです。
 今朝は棕櫚の主日として、イエス様が十字架への道を進まれることを示され、さらに十字架の救いの完成を示されています。私達はいつも教会に導かれては十字架を示されています。十字架を示されながら、イエス様が私達を贖ってくださったことを示されるのです。しかし、それは信仰によるものです。一般の人は十字架を見ても何も示されません。当然のことです。その点、カトリック教会は十字架だけではなく、十字架に架けられているイエス様を示されています。フランスのルーブル美術館に展示されているイエス様の十字架の絵は、もちろん十字架ばかりではなく、その十字架に架けられているイエス様が描かれています。イエス様が苦しみながらも祈りつつ十字架におられる実際的な救いを示されるのです。カトリック教会はそのような十字架におられるイエス様を示され、十字架のイエス様のお導きをいただいているのです。私たちもイエス様の十字架を仰ぎ見つつ、イエス様のお導きをいただきつつ歩みましょう。
<祈祷>
聖なる神様。主イエス・キリストの十字架の救いを感謝いたします。十字架を仰ぎ見つつ、お導きに従いつつ歩ませてください。キリストのみ名によってお祈り致します。アーメン。